父から聞いた原爆体験
カルテNO00356
海田まつたに鍼灸整骨院
今年もまた
原爆の季節が
やって来た
大阪で東洋医学を
勉強していたころ
原爆についてよく聞かれた
広島にいれば気が付かないが
結婚や交際の時に
放射能について
気にする人は気にする
言うか言わないか
そんな気がする
かつて原爆差別って
言葉があったそうだ
実際二世として
どうなんだろう
焼土と化した広島
50年草木が生えないじゃろう
と言われた広島
現在はと言うと
わたしが知らないだけかもしれないが
結構みんな元気で放射能の影響もなく
生きている
広島県人
放射能の影響なんて
気にする人はいない
少なくとも私の回りは
以前他県の人から
広島県人は暗い感じが・・
と指摘されたことがある
どうなんじゃろ??
よそに行ったことがないから
あまり変わらんと思うけど
現在の日本
被爆国として
どうなんじゃろ
過去の事を忘れて
同じことを繰り返す
広島の災害だって
100年前に
同じことが
起こっている
忘れるんだなぁ
人間って
それでも
忘れない努力を
するべきだ
父が亡くなって
5年が過ぎる
被爆者の平均年齢も
82歳になったそうだ
父が生きていれば
昭和四年だから
89歳・・・
16歳の時の体験記
わたしの育った町は
豪雨災害で有名になった
広島県安芸郡坂町
原爆ドームから
坂町まで約9キロ
爆心地から
約5キロ圏内は
甚大な被害を受けたと
言われている
原爆投下が
午前8:15分
坂町の人々は
広島市近郊の宇品にある
ガスが爆発したんじゃげな
と噂したが
広島市近郊の海田警察の人が
昼過ぎに新型爆弾が落ちたと
伝えられたそうな
そこで、父は中国電力のトラックに乗り
地元の人の救出に向かうことになる
広島の街は
三角州からなる
橋によってつながっており
父の記憶が正しければ
石で出来たふたつの橋だけ
渡ることができたそうな
向洋の方から
トラックで救出に向かう父
そこで見た光景とは
川を見れば
電信柱に火がついて燃えている
光景が印象的だったと言っていた
トラックに焼けた人をのせ
何往復も搬送したが
乗るのを手伝おうとしても
ケロイドで手伝えなかったそうな
あれから70年あまり
失われる記憶
平和を祈る鐘が聞こえる

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